世界でいちばん森が残っている国はスリナムだ。国土の約93%が熱帯林で、その大半が伐採も採掘も農地転換も受けていない原生林。蓄えている炭素は9億トンを超え、排出より吸収が多い「炭素の吸収源」として機能している世界3か国のうちのひとつに数えられる。
面白いのは、その93%が残った理由だ。国立公園を広げたからでも、監視を厳しくしたからでもない。1760年10月10日に結ばれた一本の和平条約が、内陸をずっと「人が住んでいる土地」にしてきたからだ。スリナムではこの日が国民の祝日「マロンの日」になっている。制定は2010年。直近では2026年10月10日がその日だった。
1760年、逃げた側が条約を勝ち取った
プランテーションから逃れて内陸に独立した共同体をつくった人々をマロンと呼ぶ。スリナムのマロンは長いゲリラ戦を戦い、1760年10月10日、オランダ植民地政府はンジュカ(Ndyuka)を自由民として認め、内陸での居住を条約で認めた。続いて1762年にサーマカ、1767年にマタワイとも条約が結ばれている。
条文は驚くほど具体的だ。ンジュカは「プランテーションから10時間以上離れた」場所に住むこと。この曖昧な距離指定は1837年に、コティカ川流域とタパナホニ川流域という具体的な地域として形式化された。見返りにンジュカ側は、新たな逃亡者を引き渡し、対外戦争の際には軍事的に協力する義務を負った。交易は認められたが、10人から12人を超えない集団で行うという条件がついた。
この統治機構は今も生きている。最高首長グランマンが隊長たちの評議会を束ね、部族の方針を決める。ンジュカの現グランマンは2015年就任のボノ・ヴェランティで、拠点はタパナホニ川沿いの村ディータビキだ。18世紀の交渉の成果が、21世紀の行政単位としてそのまま稼働し続けている。
持ち帰れる視点はここだ。この条約を動かしたのは正当性の主張ではなく、相手が戦争を続けるコストだった。交渉は、自分の言い分を磨くことではなく、相手の消耗点を数えるところから始まる。
森は「守られた」のではなく「住まれていた」
スリナムの森林面積は1,500万ヘクタールを超える。2025年9月27日、ニューヨークのクライメート・ウィークで、スリナムのメルヴィン・ボウヴァ外相がジェニファー・ヘールリングス=シモンス大統領に代わって、森林の90%を恒久的に保護すると表明した。保護区の設定と運営には2,000万ドルの支援も付いている。世界が掲げる「2030年までに30%」という目標の3倍の水準だ。
この数字が成り立つのは、内陸が無人だったからではない。Mongabayの取材によると、サーマカの人々が暮らす領域は140万ヘクタールあり、そのうち8割が手つかずの森のまま残っている。狩猟と小規模な農地と川の移動を軸にした暮らしは、森を消費しない方向に既定値が傾いている。
残したいものがあるなら、監視を増やす前に「ふだんの使い方」を設計する。既定値が保全側に倒れていれば、ルールは少なくて済む。これは森に限らず、チームの運用でも個人の習慣でも同じ構造だ。
ところが、その土地に名義が無い
ここからがこの国の本当に興味深いところだ。Mongabayの報道によれば、スリナムは南米で唯一、先住民族とマロンの領域権を法的に認めていない国である。300年近く住み、森を残してきた当事者に、法律上の土地の名義が無い。
2007年11月28日、米州人権裁判所は「サーマカ人民 対 スリナム」で判決を出し、国に領域の画定を命じた。しかし政府は公式な地図を法的に確定していない。政府側の説明は、土地権の法制化は議会の仕事であり、その集団的権利法案に必要な票が足りない、というものだ。
その法案は2021年6月に提出され、審議は止まったままだ。2025年2月、政府は修正案を出した。中身は、先住民族を国際基準にいう「人民(peoples)」ではなく登録を要する「コミュニティ」と呼び、土地については集団的な所有権ではなく「享受と使用」にとどめ、自由で事前の情報に基づく同意(FPIC)を「意思決定への関与」まで縮小するというものだった。既存の採掘権・伐採権・土地リースは有効なまま残る。先住民族村長会(VIDS)はこれを後退だとして公に拒否している。
結果は数字に出ている。サーマカ領域には44万7,000ヘクタールの伐採コンセッションが設定され、これは領域の32%に当たる。うち4万ヘクタール以上は2007年の判決の後に新しく付与されたものだ。そしてサーマカの土地に対する負の影響のうち77%が、判決後に起きている。勝訴判決は紙になったが、土地の名義の紙は無い。
石油の金は、届く前に紙の上で配分が済んでいる
そして今、スリナムは産油国になろうとしている。2024年10月、TotalEnergiesとAPAは沖合ブロック58のGranMorgu開発に最終投資決定を下した。投資額は約105億ドル、回収可能埋蔵量は7億5,000万バレル超、沖合150キロメートルに浮体式生産設備を置いて日量22万バレルを生産し、初産油は2028年の予定だ。プロジェクト名はスリナムの共通語スランナン・トンゴで「新しい夜明け」とハタの一種を意味する。国営Staatsolieは最大20%の参加権を持つ。
注目すべきは、その収入の行き先が、石油が一滴も出ないうちに書面で決まっているという点だ。2023年12月に完了した対外債券の再編には、ソブリン債再編では初となる種類の金融商品、バリュー・リカバリー・インストゥルメント(VRI)が組み込まれた。政府がブロック58のロイヤルティから最初の1億ドルを受け取った後、債権者は毎年のロイヤルティの30%を2050年まで請求できる。債権者側はその代わりに29%の元本削減と、クーポン7.95%の10年債を受け入れた。
並べると構図がはっきりする。まだ存在しない石油の分配順位は、国際金融の作法で精密に書面化された。一方、300年近く住み続けて森を残してきた側の領域権は、判決から19年近く経っても書面になっていない。どちらが先に効くかは、この20年の伐採の数字がすでに答えを出している。
請求権は、事実として存在するかではなく、書面の順番で決まる。これがスリナムから持ち帰れるいちばん硬い視点だ。
今週できる小さな実験
この視点は、国家規模の話でなくても即日使える。
- 紙が無いものを3つ書き出す。口約束のままの取引条件、名義が自分になっていないドメインやアカウント、共同でつくったものの権利配分、家族や友人との貸し借り。「揉めていないから大丈夫」は、まだ値段がついていないという意味に過ぎない。
- そのうち1つを、今週のうちに1枚にする。合意日、当事者、対象、金額または割合、終了条件。これだけあれば形式は問わない。立派な契約書を目指すと永遠に着手できないので、A4一枚で止める。
- タイミングを前に倒す。名義を固める最後のチャンスは、価値が立ち上がる直前だ。売れ始めてから、入金が決まってから、注目され始めてから書こうとすると、相手の計算がもう変わっている。
スリナムは、森が93%残るという世界一の実績を持ちながら、その実績をつくった人たちの名義だけが空欄のまま、産油国になろうとしている。実効支配と法的権利は、平時には差が出ない。価値が立ち上がった瞬間に、差が全部出る。だから紙は、価値が小さいうちに書く。
参考・出典
- Re:wild - Suriname pledges to permanently protect 90% of its forests
- Mongabay - As logging booms in Suriname, forest communities race to win land rights
- Ndyuka people - Wikipedia
- Inter-American Court of Human Rights - Case of the Saramaka People v. Suriname (2007)
- Forest Peoples Programme - VIDS repudiates government U-turn in amended draft law
- TotalEnergies - Final Investment Decision for the GranMorgu development on Block 58
- LatinFinance - Sovereign Restructuring of the Year: The Republic of Suriname