世界で唯一、通貨をゼロにした経験を持つ国が、いま「通貨に縛られない決済網」を持っている。カンボジアの話だ。自国通貨が信用されないという最大の弱点を、消そうとするのではなく設計条件として受け入れたら、結果として近隣国や中国にそのまま繋がる決済レールが出来上がった。弱点が仕様になった例として、これはかなり面白い。
1975年から1980年まで、この国に通貨は存在しなかった
クメール・ルージュは1975年4月17日に政権を取ると、貨幣・市場・私有財産を廃止した。意思表示として中央銀行の建物を爆破している。通貨が再発行されたのは1980年3月。5年間、国民は現金なしで暮らした。東西センター(East-West Center)の論考は、これを「世界で唯一、お金の廃止を実行した国」と位置づけている。
重要なのは、これが歴史の挿話で終わっていないことだ。同じ論考が指摘するのは、リエルが再発行されて何十年たっても、カンボジア人はリエルを信用せず、手元の資金をドルに替え続けているという点である。
数字で見ると徹底している。IMFの2025年対4条協議報告書(Country Report No. 25/317)によれば、2024年のカンボジアの広義流動性のうち85.1%が外貨(事実上の米ドル)預金で、リエル部分は14.9%にすぎない。世界でも最もドル化が進んだ経済のひとつだ。
ここから持ち帰れるのは、信用は制度より遅く回復するという事実だ。新しいルールを出せば期待値が戻る、という前提は実務でもよく外れる。カンボジアは45年かけてそれを確認した上で、次の手を打っている。
「リエルを使わせる」のではなく「ドルの小額券を国外に出す」
2020年5月、カンボジア国立銀行(NBC)は$1・$2・$5札の流通停止を発表した。6月1日から8月31日までの3か月で銀行・金融機関が回収し、国外へ搬出する。この期間の搬送手数料はNBCが負担し、9月以降は銀行負担に切り替える設計だった。目的も明示されている。小額決済をリエルで回すことだ。
この一手で、日常の計算が二層構造になった。値段はドルでつき、お釣りはリエルで返ってくる。しかもレートが安定しているから暗算が成立する。IMFの資料でもリエル/ドルはおおむね1ドル=4,000リエル前後の狭いレンジに収まっていて、為替制度は実質クロール型の管理フロート、公式レートは市場レートの1%以内に毎日調整されている。
説得ではなく、使う隙間を物理的に無くす。選択肢を減らす設計は、啓蒙よりはるかに速い。自分の商売でも、顧客に「新しい方を使ってください」と頼むより、古い方の在庫を切るほうが効く場面は多い。
通貨が1つという前提が無いから、最初からマルチカレンシーで作れた
2020年10月、NBCは国の決済システム「Bakong(バコン)」を立ち上げた。開発は日本のブロックチェーン企業ソラミツで、Hyperledger Iroha を使っている。ソラミツ自身の説明では、狙いはリエルの利用を促し、国内経済における米ドル利用を減らすことだった。
IMFの報告書はBakongをこう説明している。NBCのブロックチェーン基盤の決済システムで、リアルタイム・低コストの国内決済と越境決済を可能にし、銀行と決済事業者を接続し、マルチカレンシー決済に対応し、KHQRという規格で加盟店決済と越境QR決済を担う。仕組みとしては商業銀行の準備金に裏付けられたトークン化預金で、零細・小規模事業者にとって低コストだと評価されている。
ここが一番面白い構造だ。多くの国の決済網は「自国通貨が1つ」という前提の上に作られている。カンボジアにはその前提が無かった。だから通貨を暗黙の定数ではなく、明示的な項目として持つ設計にせざるを得なかった。そして通貨を項目として持つシステムは、国境をまたぐときに作り直しが要らない。
規模もすでに実体がある。IMFは、Bakongを通る決済総額がGDPの330%に達したと書いている。カンボジアの2024年の名目GDPは約461億ドル、人口は1,710万人(2023年)。この規模の国で、GDPの3倍を超える金額が1本のレールを通っている。
方向が逆になった日
対外接続の進み方を見ると、何が起きているかがはっきりする。中国のUnionPayとの連携は、第1段階(2023年)が「海外のUnionPay利用者がカンボジアでKHQRを読んで払う」方向だった。入ってくる観光客のための便宜である。
そして2025年3月10日、第2段階が始まった。方向が逆になり、BakongやカンボジアのバンクアプリのユーザーがUnionPayのQRを世界中で読めるようになった。カンボジア国営通信(AKP)の発表では、NBC総裁のチア・セレイ氏が国際取引の利便性向上に言及し、UnionPay側のCEOは「カンボジア人が中国でも世界のどこでも、地元の人と同じように払える」と述べている。受け入れる側から、出ていく側になった。
外国人として体験もできる。2024年8月19日、NBCはシェムリアップで「Bakong Tourists」アプリを公開した。メールアドレスで登録してチャージすれば、KHQRを読んで支払える。米ドルとリエルの両替、送金、受取用QRの発行、履歴管理も入っている。中央銀行のレールを旅行者が直に使える国は、そう多くない。
持ち帰って小さく試せること
- 通貨を定数ではなく変数で持つ。価格表、データベース、請求書で通貨コードを明示的に持っておく。後から国を増やすときの作業量が桁で変わる。カンボジアは選択の余地なくこれをやった側だ。
- アプリを勝たせるのではなく規格を置く。KHQRはアプリ名ではなく標準の名前だ。自分の商売でも「相手がどの道具を使っていても読める形」を先に決めると、後の接続コストが消える。
- 何も無い領域を選ぶ。カンボジアはカード網が薄かったからこそ飛び級できた。自分の持ち場で「まだ何も入っていない」部分こそ、最新のやり方をそのまま置ける。
- 行ったら実際に払ってみる。Bakong Touristsを入れて屋台でQRを読む。制度の解説を読むより、お釣りがリエルで戻ってくる瞬間のほうが理解が早い。
自国通貨の信用を一度ゼロにした国が、通貨に縛られない決済網を先に持った。制約は取り除くものだと思い込んでいると、こういう設計には辿り着かない。手元にある一番厄介な制約を、仕様として書き出してみる価値はある。
参考・出典
- IMF, Cambodia: 2025 Article IV Consultation, Country Report No. 25/317
- Sheridan T. Prasso, "The Riel Value of Money", AsiaPacific Issues No. 49, East-West Center (2001)
- SORAMITSU: In a move to reduce US dollar use, Cambodia implements a Digital Currency using SORAMITSU technology
- Cambodianess: Small US Dollar Bills to Go Out of Circulation in Cambodia in Three Months (2020)
- AKP: NBC, UPI Launch Phase II — Bakong Outward Cross-Border Payment (2025)
- Fintech News Singapore: Cambodia Launches Bakong Tourists App for Seamless Visitor Payments