タイでは、電話番号がそのまま「口座の住所」になっている

タイで一番面白いものは、寺院でも屋台でもなく、お金の宛先の書き方だ。この国では、銀行口座を指すのに口座番号を使わない。自分の携帯電話番号か国民IDの番号を、銀行口座に一度ひもづけておく。するとその番号が、そのまま送金の宛先になる。相手に伝えるのは携帯番号ひとつでいい。タイ中央銀行(BOT)が整備した「プロンプトペイ(PromptPay)」という仕組みだ。

規模が効いている。The Nation紙がタイ中央銀行のデータとして報じたところでは、2025年6月時点で登録件数は9,000万件を超え、1日あたりの取引は7,400万件を超えた。タイの人口はおよそ6,600万人だから、赤ん坊まで含めて全員が毎日1回以上お金を動かしている計算になる。

「口座番号をやめる」と国が決めた日

これは自然にそうなったのではなく、設計された結果だ。もともと「AnyID(どんなIDでもいい)」という名前で構想され、2015年12月22日に国の決済インフラとして閣議承認された。現金依存を下げるための「国家e-ペイメント計画」の柱のひとつで、一般利用が始まったのは2017年である。

一番効いているのは、宛先を「銀行が発行した番号」ではなく「人がもともと持っている識別子」にしたことだ。口座番号は銀行のものだが、電話番号は本人のものだ。宛先が本人に紐づいた瞬間、その送金網は特定の銀行の所有物ではなくなる。

料金も最初から低く設計されている。タイ中央銀行が示す上限は、5,000バーツ以下は無料、30,000バーツまでは2バーツ未満、100,000バーツまでは5バーツ未満、それを超えても10バーツ未満。日常の送金は事実上タダだと、公式に宣言したに等しい。

そして手数料がゼロになった

この設計が銀行側に跳ね返るまで、長くはかからなかった。2018年3月から4月にかけて、サイアム商業銀行とカシコン銀行がデジタル送金の手数料撤廃に踏み切り、バンコク銀行とクルンタイ銀行が続いた。他行あて送金、地域をまたぐ振込、公共料金の支払い、ATM出金まで、まとめて無料になった。当時のアナリストは、銀行の利益が最大5%削られると見ていたという。

背景には、政府が後ろ盾のプロンプトペイに加え、TrueMoneyのような通信会社系ウォレットが伸びてきた競争環境がある。ほぼ無料の公共レールが横に敷かれたら、その横で通行料を取り続けることはできない。

持ち帰れる視点:インフラが公共側に移ると、真っ先に消えるのは「そのインフラの上で通行料を取るビジネス」だ。自分の収益が「移動させることの手数料」に乗っているなら、下のレールが公共化する日を前提に組み直しておくほうがいい。稼ぐ場所は、レールの上ではなくレールの端(何を売るか、誰に届くか)に置く。

屋台がレジを買わずに参加できる

受け取る側の軽さも、この仕組みの肝だ。店が用意するのは、印刷されたQRコード1枚と銀行口座だけ。カード決済端末も、加盟店契約の審査も、端末の月額料金も要らない。宛先が電話番号である以上、QRはその番号を機械が読める形に置き換えた紙切れにすぎないからだ。

だから、真っ先に参加するのが一番小さい売り手になる。ソムタムの屋台、バイクタクシー、市場の一角で果物を売る人。端末を買えない層が最初のユーザーになった。

持ち帰れる視点:普及の速度を決めるのは、機能の豊富さではなく参加コストの低さだ。自分のサービスに置き換えるなら、問いはひとつでいい。「紙1枚とスマホだけで、今日から参加できるか」。初期費用がゼロに近づくほど、裾野の広い側から使われ始める。

国境を越えても、同じQRで済む

人が覚えられる識別子に載った仕組みは、国の外にも出やすい。2021年4月、タイのプロンプトペイとシンガポールのPayNowが接続された。相手の携帯番号だけで、国をまたいで即時に送金できる。シンガポール金融管理局(MAS)はこれを、リアルタイム決済システム同士の世界初の接続だと発表している。同年6月にはマレーシアのDuitNowとも接続した。

そこから先は面として広がっている。タイ中央銀行が挙げる接続先は、カンボジア、ベトナム、インドネシア、香港、ラオス(2024年)。日本も入っていて、タイからの旅行者は自分の銀行アプリで「MyPromptQR」を表示し、日本の店に読み取ってもらう形で支払える。韓国と中国からの訪問客を受け入れる側の仕組みも整えられている。

持ち帰れる視点:標準が越境するかどうかは、技術の優劣より「宛先の書き方が人間にとって自然かどうか」で決まる。電話番号は国が変わっても意味を失わない。逆に、自社専用の会員番号を宛先にした仕組みは、自社の外に出た途端に翻訳が必要になる。

今日から小さく試せること

  • 識別子を人に寄せる。顧客に新しい番号を覚えさせていないか点検する。その人がすでに持っているもの(電話番号、メール、既存アカウント)を宛先にできないか。
  • 通行料に依存しない。売上のうち「取次ぎ・仲介・送金」に乗っている割合を数え、そこが無料化しても残る部分を先に太くする。
  • 入口の機材を捨てる。導入に機材や審査を求めている箇所を1つ選び、紙とスマホだけで始められる形に置き換えてみる。
  • 旅行者として。東南アジアに行く前に、自分の使う決済アプリが現地の国内QRに対応しているか確認する。両替所に並ばずに済む場面が、年々増えている。

タイが示したのは、決済が速くなるという話ではない。宛先の決め方をひとつ変えるだけで、誰がその網を所有するか、誰が参加できるか、どこまで広がるかが全部変わるということだ。設計の一番上流にある小さな選択が、いちばん遠くまで効く。

参考・出典