酸素が3〜4割少ない土地で、チベット人の血は濃くない
これがこの話で一番面白いところだ。チベット高原は平均標高4,500mを超え、空気中から取り込める酸素は平地より3〜4割少ない。そこに人が住んでいる。一時的にではなく、何千年も。
普通に考えれば、体の答えは決まっている。酸素が薄いなら、運ぶ船を増やせばいい。赤血球を増やし、ヘモグロビン濃度を上げる。実際、平地から高地に上がった人の体はこれをやる。
ところがチベットの人たちのヘモグロビン濃度は、平地の人とほとんど変わらない。赤血球をつくる反応そのものが控えめで、動脈血の酸素飽和度は低いままだ。つまり「薄い酸素を薄いまま受け入れて、血は濃くしない」。教科書的な適応と正反対の道を選んでいる。
そしてこれが、勝っている方の戦略だった。
「増やす」を選んだ集団が払っている代償
比較対象がいる。アンデス高地の人たちだ。同じように標高4,000m級に住むが、彼らはヘモグロビンを増やす方向に適応した。短期的にはこちらのほうが理にかなって見える。
だが数字がはっきりしている。慢性高山病(CMS)の発症率は、ペルーのアンデス高地では男性の最大18%に達する。チベットではおよそ1%。ペルーのセロ・デ・パスコ(標高4,330m)では、30代で15.4%、50代では約33%が発症するという報告がある。
理由は単純だ。血を濃くすれば粘度が上がる。粘度が上がれば心拍出量と微小循環の流れが落ちる。容量を増やしたつもりで、配管を詰まらせている。
ここに持ち帰れる型がある。制約に対する最初の反射は「増やす」だが、増設は短期の指標を改善しながら、長期にシステムを壊すことがある。人手が足りないから増やす。広告費が足りないから増やす。機能が足りないから増やす。どれも数か月は効く。効いている間に、どこかの粘度が上がっていないかを別の指標で見ておく必要がある。
その仕組みは、自前の発明ではなかった
では、チベット人はどうやって「増やさない」体を手に入れたのか。
2014年にNature誌に出た研究が答えを出している。研究チームはチベット人40人と漢族40人のゲノムを比較し、低酸素応答に関わるEPAS1という遺伝子まわりの32.7キロベースの領域に、異常なほど大きな差を見つけた。この領域のチベット型の配列は、現代人どうしのばらつきでは説明がつかないほど、デニソワ人のゲノムに似ていた。
デニソワ人は2010年にシベリアの洞窟の指の骨から見つかった、絶滅した人類の系統だ。現生人類はどこかで彼らと交雑し、そのDNAの一片を受け取った。そして高原に上がったとき、その一片が効いた。今ではチベット人の染色体の約8割がこの型を持ち、漢族にはほとんど見られない。
自分たちで発明したのではない。借りたものが、後から効いた。
貸主は、すでにその高原に住んでいた
ここからさらに面白くなる。
1980年、甘粛省夏河県の白石崖溶洞(標高3,280m)で瞑想していた僧侶が、下顎の骨を拾った。骨は長く注目されず、本格的な研究が始まったのは2010年。2019年、臼歯の象牙質に残っていた古代タンパク質(コラーゲン)の解析によって、これがデニソワ人のものだと判明した。年代はおよそ16万年前。シベリアのデニソワ洞窟の外で確認された、最初のデニソワ人化石だった。
2020年には同じ洞窟の堆積物から、約10万年前から4万5千年前にわたる地層でデニソワ人のDNAが検出された。切り傷のついた動物の骨や石器も出ている。彼らは通りすがりではなく、その高地で暮らしていた。
一方、現生人類が高原の内陸部にいた最古の確実な証拠は、標高4,600mのニヤ・デヴ遺跡(尼阿底)で、およそ4万〜3万年前。世界で最も高い旧石器時代の遺跡だ。
つまり現生人類は、その環境で10万年以上も先に生き延びていた相手から、その環境専用の部品を受け取った。借りるなら、同じ制約の下で長く生き延びた相手から借りる。これは今の仕事にもそのまま移せる。
定住を可能にしたものも、外から来た
息ができるだけでは、人は住み着かない。食えなければ帰る。
2015年にScience誌に出た研究によれば、標高3,000mを超える土地での通年の定住が広がるのは、およそ3,600年前から。決め手は、寒さに強い大麦だった。そして大麦や小麦はチベット原産ではなく、西アジアで栽培化された作物だ。
高原を人が住める場所に変えた2つの鍵——酸素を扱う遺伝子と、寒冷地で実る穀物——は、どちらも外から来ている。土地への適応とは、ゼロから発明することではなく、外から持ち込んで、その場所で選び抜くことだった。
小さく試せる3つのこと
- 「増やして凌いでいるもの」を1つ書き出す。人・金・機能・時間。それが短期の指標を改善しながら、どこの粘度を上げているかを1つだけ特定する。
- 解く前に、解いた人を探す。自分と同じ制約の下で長く生き延びている個人・企業・地域を1つ挙げる。発明より移植のほうが速い。
- 今すぐ効かない手持ちを捨てない。デニソワ人由来の配列は、高原に上がるまで特別な意味を持たなかった。価値を決めたのは配列そのものではなく、環境の変化だ。使い道の見えない技能や資産は、環境が変わるまでの在庫だと考えていい。
チベット高原の話が気持ちいいのは、勝ち筋が「もっと頑張る」ではなかったところだ。増やさない。借りる。環境が変わるまで持っておく。標高4,500mで何千年も通用した戦略なら、僕らの平地の仕事でも試す価値がある。
参考・出典
- Huerta-Sánchez et al., "Altitude adaptation in Tibetans caused by introgression of Denisovan-like DNA," Nature (2014)
- Chen et al., "A late Middle Pleistocene Denisovan mandible from the Tibetan Plateau," Nature (2019)
- Zhang et al., "Denisovan DNA in Late Pleistocene sediments from Baishiya Karst Cave on the Tibetan Plateau," Science (2020)
- Zhang et al., "The earliest human occupation of the high-altitude Tibetan Plateau 40 thousand to 30 thousand years ago," Science (2018)
- Chen et al., "Agriculture facilitated permanent human occupation of the Tibetan Plateau after 3600 B.P.," Science (2015)
- Advances in Understanding Adaptive Hemoglobin Concentration at High Altitude (PMC)
- High-altitude adaptation in humans: from genomics to integrative physiology (PMC)