世界で唯一、プラスチックの硬貨が日常的に流通している場所がある。沿ドニエストル共和国。モルドバとウクライナのあいだに細長く伸びる、どの国からも国家として承認されていない土地だ。

2014年8月22日、沿ドニエストル共和国銀行が1・3・5・10ルーブルの硬貨を発行した。金属ではなく複合プラスチック。しかも形がすべて違う。1ルーブルは丸、3ルーブルは角の丸い四角、5ルーブルは五角形、10ルーブルは六角形。角が増えるほど高額になる。色も黄褐色・緑・青・赤橙と分かれている。

僕がこの硬貨を面白いと思うのは、珍しいからではない。承認されていない場所が経済を回すために何を用意したのか、その設計が三層にきれいに分かれて見えるからだ。そして2025年、その三層目が抜けた瞬間に何が起きたかも、はっきり記録されている。順に見ていく。

一層目:読まなくてもわかるお金

プラスチック硬貨の面白さは、額面が形そのものになっている点にある。丸・四角・五角形・六角形。ポケットの中で指先が触れただけで、数字を読まずに金額がわかる。直径も1・3ルーブルが26ミリ、5・10ルーブルが28ミリと分かれている。図柄には、ティラスポリの街を築いたとされる将軍アレクサンドル・スヴォーロフ(1ルーブル)や、エカチェリーナ2世(10ルーブル)が入る。

これは小額紙幣の置き換えとして導入された。紙幣は小額ほど早く傷む。硬貨は丈夫だが金属代がかかる。複合プラスチックは、その両方の弱点をまたいでいる。

持ち帰れる視点はここだ。情報を伝える手段は、文字と色だけではない。形・重さ・手触りは、読解のコストがゼロに近い。自分の商品でも画面でも、いま色や文字で区別しているものを1つ選び、「形で区別できないか」と問い直してみる。パッケージの角、ボタンの輪郭、封筒のサイズ。読ませずに伝わる箇所が、たいてい一つは残っている。

二層目:全部を自前でやる一社

沿ドニエストルの経済を語るとき、必ず出てくる名前がある。シェリフ(Sheriff)だ。1993年6月24日設立、創業者はヴィクトル・グシャンとイリヤ・カズマルイ。事業範囲が圧巻で、ガソリンスタンド、スーパーマーケット、テレビ局、出版、建設、メルセデス・ベンツの販売店、蒸留所、パン工場、固定・携帯の通信、そしてサッカークラブとスタジアムと五つ星ホテルまで持っている。2012年時点の従業員数は13,157人。政党「オブノヴレニエ(刷新)」は同社の政治部門とされ、2005年の議会選挙では43議席中23を獲得した。

このクラブが、2021年9月28日に世界を驚かせた。シェリフ・ティラスポリがサンティアゴ・ベルナベウでレアル・マドリードに2-1で勝ったのだ。決勝点は89分、セバスティアン・ティルのミドルシュート。モルドバ国内リーグから初めてチャンピオンズリーグ本大会に到達したクラブが、いきなり世界最大級のクラブの本拠地で勝った。

なぜ一社がここまで縦に広がるのか。答えは単純で、外の仕組みが使えないからだ。国際的に承認されていない場所には、外から来る決済網も物流網も広告代理店も、当たり前には入ってこない。ないものは自分で作るしかない。結果として、垂直統合が「選択」ではなく「唯一の形」になる。

裏返すと、こうも言える。外部インフラが充実している場所で垂直統合をやるのは、ただ高いだけだ。自前でやるか外に任せるかの判断は、好みでも思想でもなく「その機能を外から買えるか」で決まる。買えないなら作る。買えるのに作るなら、それは趣味である。いま自前化を検討している工程があるなら、まず「これは本当に外から買えないのか」を一度だけ確かめるといい。

三層目:帳簿に載らない補助金

そしてここが、この話でいちばん面白いところだ。

沿ドニエストルは2005年以降、ロシアのガスプロムにガス代を1セントも払っていなかった。累積した額はおよそ111億ドル。それでもモスクワが支払いを求めることはなかった。

仕組みはこうだ。沿ドニエストルはガスプロムと直接契約していない。モルドバ側の国営ガス会社モルドバガスが国全体分の契約を結ぶため、沿ドニエストルが使った分の債務は、モルドバ側の帳簿に積み上がっていく。

一方で、地元の住民や工場は「タダ」ではなかった。彼らは地元当局に料金を払っていた。ただしその単価が、1立方メートルあたり約6セント。モルドバ本土は約1ドルだった。そして住民が払ったその代金は、ガスプロムに送られるのではなく、そのまま当局の予算になった。

つまり沿ドニエストルの安いエネルギーと、それを前提にした工場の価格競争力は、実力ではなかった。他人の帳簿に付けられた請求書だった。しかも硬貨にもシェリフの看板にも、その事実はどこにも書かれていない。三層目は、見えない層だったのだ。

見えない層が抜けた日

2024年12月31日19時50分、ウクライナがロシア産ガスの経由輸送契約を更新せず、供給が止まった。翌1月1日から沿ドニエストルへのガスはゼロになる。

起きたことは速かった。1月2日までに工業企業はすべて操業を停止。学校131、幼稚園147、行政施設130が暖房を失う。1月6日には約122の集落、5万1,500世帯超がガスなしの状態になった。停電は1月3日の1時間から1月7日には8時間へ延びた。ルィブニツァの製鉄所は操業を止め、2,000人以上が職を失った。2月中旬までに工業活動はおよそ70%落ちている。

2月1日、EUの支援(総額6,400万ユーロ、うち2,000万ユーロがガス購入分)でブルガリアとルーマニア経由の供給が始まり、暖房は戻った。ただし戻ったのは供給であって、値段ではない。3月1日、料金が一斉に引き上げられた。ガス109%、暖房80%、電気60%、水道25%。報道機関の集計では、2025年の実質GDPは約18%減、鉱工業生産は27.3%減、輸出は6割近い落ち込みとなった。

ここで注目したいのは、壊れなかったもののほうだ。プラスチック硬貨は無傷で流通し続けた。シェリフの店もガソリンスタンドも通信網もそのまま残った。一層目も二層目も壊れていない。それでも全部が止まった。抜けたのは、誰も見ていなかった三層目だけだった。

自分の「見えないガス」を数える

これは遠い国の特殊な話ではない。同じ構造は、たいていの小さな事業に入っている。プラットフォームの販促費、無料枠、為替、据え置かれた家賃、家族の労働。原価表に出てこない誰かの負担が、価格の安さを支えている。

棚卸しの手順はシンプルだ。商品を1つ選んで、次の三つを紙に書く。

  • 誰が肩代わりしているか:この価格が成り立つ理由のうち、自分が払っていない部分を全部書き出す。
  • それは契約か、好意か:規約や契約書を開いて、期限と終了条件を実際に読む。「ずっと続いてきた」は根拠ではない。
  • 剥がしたらいくらか:肩代わり分を全部乗せた「素の原価」を計算し、その価格でも売れるかを考える。

差が2割以内なら、それは自分の事業だ。2倍以上に跳ねるなら、乗っているのは事業ではなく、誰かが用意した席である。席が悪いわけではない。ただし、席には期限がある。沿ドニエストルの場合、その期限は約20年続いたあと、大晦日の夜7時50分に来た。

面白い場所は、いつも仕組みを裸で見せてくれる。六角形の10ルーブル玉は、たぶん今日もポケットの中で音を立てている。この土地に足りなかったのは承認ではなかった。自分の帳簿だった。

参考・出典