ベルギーは1869年、世界で最初に「格安の通勤定期券」を発明した国だ。面白いのは、その動機がまったく労働者思いではなかったことにある。政府が安い定期を配った理由は、労働者を助けるためではなく、労働者を都市に来させないためだった。そしてこの政策は、狙いどおりに効きすぎた。150年後のいまも、その結果は飛行機の窓から見える。ベルギーの家は、町にまとまらず、道路沿いに細長く連なっている。
「通勤」という発明は、都市を止めるための装置だった
ベルギーには鉄道の下地があった。1835年5月5日、ブリュッセルからメヘレンまでの22キロを蒸気機関車が走る。ヨーロッパ大陸で最初の鉄道旅客路線だ。30両の客車に900人の招待客が乗り、蒸気機関車を実用化したイギリスのジョージ・スティーブンソン本人も同乗していた。
そこから34年後の1869年9月8日、ベルギー国鉄が労働者向けの格安定期券を導入する。当時の為政者が抱えていた不安は、はっきりしていた。農村の貧しい労働者が工業都市に流れ込んで住みつけば、そこは社会不安と風紀の乱れの温床になる。都市への人口流入そのものを止めたい。ならば、住む場所を変えさせるのではなく、毎日運んでしまえばいい。
これは世界初の試みで、そして大成功だった。運賃は安いかわりに乗り心地は最低限、片道に何時間もかかることもあった。それでも1900年ごろには、ベルギーの労働者の5人に1人が電車で通勤していた。やがて使用人も役人も、引っ越すかわりに通うようになる。
ここが一番面白いところだ。ふつう鉄道は「人を都市に運ぶため」に敷かれる。ベルギーの鉄道は途中から、「人を都市に住ませないため」に使われた。同じ線路、同じ列車で、目的が真逆になっている。
100年後、その判断は「地図」として姿を現した
引っ越さなくてよくなった人は、引っ越さない。すると家は、もともと人がいた場所——村と村をつなぐ道沿いに建っていく。これがフランデレン地方で lintbebouwing(リボン状開発)と呼ばれる景観で、18世紀の地図にすでに兆しがあり、第二次大戦後に一気に加速した。
- フランデレンの住宅の約4分の1が、自治体と自治体をつなぐ道路沿いに立っている
- その道路の総延長は13,177キロ。ブリュッセルからシンガポールまでの距離より長い
- 1948年のドゥ・タイエ法が、個人が自分の家を建てるための補助金と低利融資を用意し、この流れを後押しした
- 国土計画の法律ができたのは1962年。それまで自治体が建築許可を断ることはほとんどなかった
ベルギーには「ベルギー人は腹にレンガを持って生まれてくる」という言い回しがある。自分の家を自分で建てて持ちたい、という強い性向のことだ。実際、持ち家率は7割を超える。安い通勤、家を建てる補助金、遅れてきた都市計画、そして自家用車。この4つが同じ方向を向いた結果、欧州環境庁の2016年の調査で、ベルギーはヨーロッパでもっとも市街地の拡散が進んだ地域のひとつに数えられることになった。
請求書も来ている。フランデレンの渋滞は2022年、1日平均679キロに達した。1869年に都市の過密を避けるために打った手が、めぐりめぐって道路の渋滞になって戻ってきている。
それでも鉄道は、いまも国の背骨として動いている
ここで話が「失敗談」で終わらないのがベルギーの面白さだ。人が国じゅうに散らばったからこそ、鉄道は薄く広く張りめぐらされ続けた。2024年、ベルギーの鉄道網の密度は国土1平方キロあたり118.7メートルで、チェコ(123.2メートル)に次ぐEU第2位。しかも路線の88.0%が電化されている。
そして1869年の発想は、いまも制度として生きている。ベルギー国鉄には「第三者払い」という仕組みがあり、雇用主が通勤定期代の80%を国鉄へ直接支払い、残りの20%を国が負担する。従業員の手出しはゼロ、つまり通勤が完全に無料になる。155年前、都市への流入を止めるために「通勤を安くする」と決めた国は、いまだにその値引きを払い続けているわけだ。もとの不安——都市が社会不安の温床になる——はとっくに消えたのに、値札のほうだけが残って動き続けている。
持ち帰れる視点:「何を解決したか」ではなく「何を安くしたか」を見る
この話から取り出せる型は、そのまま自分の仕事に使える。どんな施策にも、掲げた目的と、変えた価格の2つがある。目的には賞味期限があるが、価格は複利で効き続ける。1869年の目的はもう誰も口にしないのに、あのとき下げた運賃は、いまのベルギー人の家が建つ場所をまだ決めている。
だから制度や機能を設計するときは、「これは何を解決するか」だけでなく「これは何を安くするか」を必ず書き出したい。人は安くなった行動を、設計者の想像を超えた量と方向でやる。
身近な例で言えば、リモートワーク手当は「通勤を高く、住む場所の自由を安く」する施策だ。3年続けば社員の分布そのものが変わる。それは人事制度の変更というより、地図の変更に近い。送料無料も、初月無料も、ポイント還元も同じで、下げた摩擦の先に人が流れ込み、そこに新しい地形ができあがる。
今日から小さく試せることは、2行で終わる。いま自分が回している仕組みをひとつ選び、①これは何を安くしているか、②それを大量にやられたら3年後どうなるか、を書く。だいたい②のところに、次にやるべき仕事が転がっている。
ベルギーのいいところは、この実験の答え合わせが150年分すでに終わっていることだ。結果は飛行機の窓から見える。自分の実験の結果が出るのは、もう少し先でいい。
参考・出典
- Canon van Vlaanderen: The First Train Journey(1835年の初列車と1869年の労働者向け格安定期)
- Canon van Vlaanderen: Ribbon Development(リボン状開発の規模と原因)
- Eurostat: Characteristics of the railway network in Europe(2024年の鉄道密度・電化率)
- European Environment Agency: Urban sprawl in Europe (2016)
- Securex: A higher contribution for public transportation commuting as of June 1, 2024(第三者払いの80%/20%)
- KBC: Another brick in the wall — the Belgian urge to build their own home(持ち家率と「腹のレンガ」)