バングラデシュには、洪水が来ると畑ごと浮き上がる農地がある。土に植えるのではない。水面に、厄介者の水草であるホテイアオイを厚く積み上げ、竹を渡して筏(いかだ)状の苗床をつくり、その上で野菜を育てる。地元では「ダップ(dhap)」と呼ばれる。FAO(国連食糧農業機関)は2015年、この浮き畑をゴパルガンジ・ピロジプル・バリシャルの3県、約2,500ヘクタールにわたる農法として「世界農業遺産(GIAHS)」に指定した。

この国の話がいちばん面白いのは、そこに一本の設計思想が通っているからだ。バングラデシュは、水を減らす方向にだけ賭けなかった。水は来る、という前提を固定したうえで、動かせる方を動かした。畑を浮かせ、警報を人力で運び、学校に避難所を兼ねさせた。その結果が、数字にはっきり出ている。

排水ではなく、浮力で解いた

ダップの作り方はシンプルだ。水面に繁茂したホテイアオイなどの水生植物を集めて何層にも積み、竹を渡して形を保つ。植物は下から腐り、そのまま養分になる。土を運ぶ必要も、地面を持ち上げる工事も要らない。FAOの資料によれば、この苗床の上でオクラ、へちま、ツルムラサキ、なす、きゅうり、ひゆ菜、冬瓜、にがうり、空心菜、メロンといった夏野菜が育ち、一度のモンスーン期に2〜3回の作付けを回すのが一般的だという。

普通、氾濫原の農業対策といえば堤防・排水・干拓になる。つまり水を押し返す発想だ。それは巨額の投資と維持費を要求するし、負けたときの損害が大きい。浮き畑は逆で、水位が上がるほど苗床も上がる。増水は敵ではなく、単なる高さの変化になる。

これは技術というより、問題設定の置き換えだ。「水位を下げるにはどうするか」を捨てて、「水位が何メートルでも収穫できる形は何か」に問いを変えている。変えられない変数を認めた瞬間に、解ける問題へ化けた例だと思う。

警報の最後の1マイルは、隣の人が走る

もう一つが、サイクロン警報の届け方だ。ここには、災害対策の歴史でもかなり劇的な数字がある。

  • 1970年のボーラ・サイクロン:死者30万人以上
  • 1991年のサイクロン:死者およそ13万8千人
  • 2007年のシドル:死者およそ4千人

Our World in Dataは、シドル以後は、カテゴリー4や5の強いサイクロンが襲来した年でも死者が200人を超えた年はない、と整理している。2020年のアンファン、2023年のモカのような大型が来ても、である。同じ海、同じ地形、同じ人口密度のまま、犠牲者の桁が変わった。

効いたのは衛星やレーダーだけではない。その先の「最後の1マイル」を、人間が埋めている。ボーラの惨事のあと1970年代前半に発足したサイクロン準備プログラム(CPP)は、政府とバングラデシュ赤新月社の共同事業で、村単位の組織を海岸部に張りめぐらせた。学術誌に載った発足50年の検証によれば、その規模は3,801の村ユニット、各ユニット20人、合計およそ7万6千人のボランティアにおよぶ。

この20人の内訳が一番面白い。女性10人、男性10人と決まっている。同じ論文は、この性別の均等さが、家の中にいて外の情報が届きにくい女性や高齢者へ警報を通すうえで効いていると指摘する。ボランティアが使う道具も驚くほど素朴だ。拡声器、手回しサイレン、モスクのスピーカー、そして赤い警報旗。危険度が上がれば掲げる旗の枚数を増やす。夜に迫れば、メガホンとサイレンで戸口まで回る。

予報の精度は、届いて初めて価値になる。届ける経路のほうは最新である必要がなく、むしろ顔を知っている近所の人が走ってくる形が強い。ここは自分の仕事にもそのまま効く教訓だと思っている。「伝えたのに動いてもらえない」の多くは、内容の問題ではなく最後の1マイルの問題だ。

余っているものを、資材にする

浮き畑もCPPも、共通点がある。すでにそこに余っているものを資材にしていることだ。

ホテイアオイは、水路を詰まらせる厄介な水草として世界中で嫌われている。それが浮き畑では、毎年勝手に再生産される建材であり肥料になる。ボランティアは無給の隣人だが、そのぶん人数を桁で用意できるし、地元の地理と、誰が自力で動けないかを最初から知っている。

避難所も同じ発想だ。世界銀行によれば、1970年代のバングラデシュには100棟に満たない避難所しかなかったが、現在は5,000棟を超え、500万人近くを収容できる。しかもこれらは平時、小学校として使われている。年に数日のために遊ばせておく建物ではなく、毎日使う建物にもう一つの役割を持たせた。冗長性を「余分なコスト」ではなく「兼務」で確保している。

今日から小さく試せること

  • 変えられない変数を、先に確定させる。「水位は下がらない」と決めたから浮き畑が生まれた。仕事でも、値下げできない・人は増えない・締切は動かない、を先に固定すると、残った変数が急に見えてくる。
  • 最後の1マイルに、人を置く。資料を送って終わりにせず、相手先で一番顔が利く人を一人決めて、その人から口頭で流してもらう。届いていない情報は、存在していない情報と同じだ。
  • 余り物を資材として棚卸しする。使っていない在庫、空き時間、既存の顧客リスト、社内で誰も見ていないデータ。ホテイアオイの位置にあるものが、たいてい一つは見つかる。

洪水が国土の広い範囲を毎年浸すという条件は、選べるものではない。バングラデシュはその条件を消そうとするのをやめて、条件の上に立てる形を選んだ。畑は浮き、警報は歩き、学校は避難所を兼ねる。制約が厳しいほど設計は面白くなる、という実例だと思う。

参考・出典