世界を回っていると、時々「これ、日本の自分の部屋でも試せるな」という仕組みに出くわす。今回オランダで見つけたのは、「モノを売り切る前に、まず貸してみる」という発想だ。物価高で節約の話ばかりが盛り上がり、収入の話はなぜか口にしにくい——そんな空気が漂う今だからこそ、この手はちょっと面白い。制度をそのまま持ち帰ることはできないけれど、この発想だけなら、自分のクローゼットひとつから軽く試せる。今日はその実験の話をしたい。
「収入を上げよう」が言いにくい、今だからこそ
タイムラインをスクロールしていると、値上げの話がよく流れてくる。「7月も飲食料品の値上げが続く。パンや即席麺、普段買うものばかり」。「節約にも限界がある」。生活が重くなっているのは、数字を見れば確かだ。
面白いのは、そのすぐ隣にこんな声が並ぶことだ。「収入を上げていこうという話をSNSですると、登録者が減る」。「本業だけで暮らせなくなったのは何故なのか。そこには触れられないんだよね」。物価高で生活は苦しいはずなのに、「稼ぐ」という話題そのものが敬遠される。このねじれは、なかなか興味深い。
僕はTaiichi.netで「小さな実験のための世界のプレイブック」を掲げて、世界のあちこちで見つけた仕組みを自分で試しては、こうして手渡している。だから「副業しよう」「投資しよう」と正面から旗を振るより、もっと軽い入り口が好きだ。節約は歓迎され、収入の話は敬遠される——なら、その二択の外にある、第三の道を探せばいい。そう考えていたときに、ちょうどオランダの話を思い出した。
オランダには「借りる」文化がある
オランダには、隣人どうしでモノを貸し借りする習慣が、暮らしの中に実際に根づいている。その象徴が、アムステルダム発の Peerby(ペアビー)というアプリだ。使い方はシンプルで、自分が今ほしいモノ——ドリル、はしご、キャンプ道具——を投稿すると、ご近所の誰かが「うちにあるよ、貸すよ」と応じてくれる。所有している人がリストを並べるのではなく、必要な人が「貸して」と声を上げる。そこから交換が始まる、というのがこのサービスの特徴だ。投稿されたリクエストの八割以上が三十分以内に応えられるとも報じられている。
面白いのは、このアプリが生まれたきっかけだ。創業者のダーン・ウェデポールは、2009年に自宅アパートの火事でほとんどの持ち物を失った。何もなくなった彼は、必要なものを近所の人たちに借りて回るしかなかった。そこで彼が気づいたのは——「人は誰かを助けるのが本当に好きなんだ」という手触りだった。この体験がそのままサービスの設計思想になっている。「持っていること」より「使えること」。「買うか買わないか」より「借りられるかどうか」。
そして Peerby は例外的な変わり種ではない。オランダには、地域の図書館が本だけでなく道具や日用品を貸し出す「Bibliotheek van Dingen(モノの図書館)」の取り組みがあり、ドリルやプロジェクター、キャンプ用品といった「たまにしか使わないもの」を借りられる場所が各地に広がっている。2018年に行われた「Deeleconomie in Nederland(オランダのシェアリングエコノミー)」の調査では、国内におよそ250もの貸し借り・共有のプラットフォームが確認されたという。「借りる」という選択肢が、それだけ生活に溶け込んでいるということだ。
なぜオランダで「借りる」が根づいたのか
背景を考えると、腑に落ちるところがある。オランダは国土が狭く、人口密度が高い。1平方キロあたりおよそ500人、そして人口の約9割が都市部に暮らす強い都市国家だ。運河沿いに細長い煉瓦造りのアパートが肩を寄せ合い、家のなかに余分なモノを置いておく余裕は、そう多くない。
限られた空間に、限られたモノしか置けない。だったら、年に一度しか使わないドリルやテントを一軒ずつが抱え込むより、必要なときに近所で回したほうが理にかなっている。所有することと使うことが、暮らしの都合から自然に切り離されていく。狭さと密度が、「借りる」を特別な善行ではなく、当たり前の生活術に変えていった——そう考えると、Peerby のようなサービスが根づいたのも、火事という偶然だけの話ではないと分かる。
もちろん、いいことばかりではない。同じシェアリングの流れのなかで Airbnb が広がり、アムステルダムでは住みやすさが損なわれたと批判されるようにもなった。文化には光と影の両方がある。だから僕がここから持ち帰りたいのは、制度でも仕組みでもない。もっと手前にある、一つの軽い感覚だ。「モノは、抱え込む前に、まず回せる」。その一点だけを、日本のこの部屋に持って帰りたい。
自分のクローゼットに置き換えてみる
さっそく、自分のクローゼットの引き戸を開けてみた。
中は思ったより詰まっていた。冬のダウンジャケット、一度だけ使ったキャンプ用のランタン、昨シーズン買ったトレッキングポール。奥に押し込んだスキーウェアの袖が、もう一段の棚からはみ出している。買った時はどれも「これから始まる何か」の証だった。そのわりに、けっこう長く眠っている。
アムステルダムの運河沿いに住む誰かなら、この棚をどう扱うだろう。使わないモノを抱えたまま眠らせておくより、ひとまず棚から下ろして、必要な人の手に渡す。その感覚を、自分のクローゼットの前で試してみたくなった。
ここで面白いのは、「売る」と焦らないことだ。売ってしまえば、それきり手元から消える。でも貸すなら、使ったら返ってくる。スキーウェアはシーズンが来れば自分が着る。ダウンジャケットも同じ。でも、トレッキングポールとランタンは——使う間隔が空きすぎている。モノによって、手放せるものと手放せないものがある。売るか売らないかではなく、貸すか貸さないか。その線が、クローゼットを開いて眺めていると、思ったよりはっきり見えてくる。
ランタンの箱を、机の上に置いてみた。クローゼットの奥から出しただけで、なんとなく空気が動いた。奥で眠っていたモノが、机の上のライトを浴びると、少し表情を変える。この箱が誰かの週末に持ち出されるイメージが、もう半分くらい見えてきた。
「でも、壊れたら?」は、軽く回避できる
「でも、壊れたらどうするの」。そんな声が聞こえてきそうだ。見知らぬ人にいきなりモノを渡すなら、確かに神経を使う。でも、そこは工夫のしどころだ。
Peerby が「ご近所」という狭い輪の中で機能しているように、まずは顔の見える相手から始めればいい。信頼できる隣人、趣味の仲間、週末に一緒に山へ行く友人。範囲を狭めれば、「壊れたら」の心配はぐっと小さくなる。未知の相手に開くのは、慣れてきてからでいい。
もし家族が「知らない人に貸すなんて」と言うなら、それはそれで正しい。なら、対象を自分だけのモノに絞ればいい。共有の道具だと「貸してもいい?」の一言でさえ家庭内会議になるけれど、学生時代に買った一人用バーナーなら、自分の判断ひとつで動ける。要は、未知を少しだけ既知に変えてから動く。それだけで、この実験はぐっと気軽になる。
今日からできる、小さな実験
やることは拍子抜けするほど少ない。まずスマートフォンのカメラを起動して、押入れの奥のテントにレンズを向けてみる。フラッシュは要らない。自然光のまま、シャッターを一枚。今日撮っても、一分もかからない。
写真を撮ったら、メモ帳に三行だけ書く。「いつからいつまで貸せるか」「状態はどうか」「返ってこなかったらどうするか」。この三つの問いに、自分なりの言葉で答える。マッチングアプリの登録欄ではない。誰にも見せない、自分だけのメモだ。
三つ目の「返ってこなかったら」に答えられると、実はいちばん身軽になる。「じゃあ、その時は売ればいい」「次はもっと条件をはっきり書けばいい」。答えを一つ持っておくだけで、あとは実験のスイッチを押すだけになる。準備といっても大げさな話ではない。テントの写真と、三行のメモと、送信ボタンを押す数秒。それで十分だ。
そして最後の一歩。LINEのトーク画面を開いて、週末に一緒に山に行く友人に「テント、使わない期間が長いから、必要なら貸すよ」と打ち込んで、送信ボタンを押す。売るのではなく、貸す。その一文字の違いで、モノの行き先が変わる。クローゼットの奥に眠っていたテントが、誰かの週末を少しだけ明るくする——その想像が、この実験のいちばん楽しいところだ。
収入の柱を増やそうと大きく構える前に、まずは家の中のモノに目を向けてみる。売り切る前に、一度だけ、貸してみる。オランダの誰かが当たり前にやっていることを、自分の暮らしの範囲で、ごく小さく。それだけで、クローゼットの見え方が——そして「稼ぐ」と「切り詰める」の二択しかないと思い込んでいた景色が——ちょっと面白く変わってくる。世界にはまだまだ、こういう軽い手が転がっている。
参考・出典
本記事では、以下の公開情報を参照しました。本文中のクローゼットでの実験は本記事の応用案であり、一次情報にない効果や成果を保証するものではありません。
- Peerby(ご近所での貸し借りアプリ/リクエスト方式): TechCrunch「Peerby's Local Lending App Is Ready To Help Neighbours」
- 創業者ダーン・ウェデポールと火事の逸話: Founder Institute「Dutch Startup Peerby is a Sharing Economy Powerhouse」
- オランダの貸し借りプラットフォーム数(約250): MT/Sprout「Zoveel deelplatforms heeft Nederland」
- オランダの人口密度: Macrotrends「Netherlands Population Density」
- オランダの都市人口比率: Worldometer「Netherlands Population」
- https://x.com/mari_sfire/status/2071925105006108740
- https://x.com/asterisk_sendai/status/2072330830169674165
- https://x.com/k_maho01/status/2072516863091744956
- https://x.com/nozomi_life0601/status/2072810045340029349
- https://x.com/cBtvtx4sRaYm34S/status/2073376298479857733
- https://x.com/cBtvtx4sRaYm34S/status/2073374067877617915
- https://x.com/NorikoTakuro69/status/2073044096793665599
- https://x.com/NorikoTakuro69/status/2073407096885031345